在りのままの意味で宇宙的な永遠の自己確立道筋発見=次元上昇への道探索!!!

ヒマラヤ聖者の生活探求の概要

ヒマラヤ聖者の生活探求の概要



以下の文献は、なわ・ふみひと氏のHP「2012年の黙示録」より抜粋

(抜粋始め)


ーーヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
ベアード・T・スポールディング・著  霞ヶ関書房  1987年刊

  • この本は大変深淵な真理を述べていますので、これだけの抜粋では意味するところをお伝えするのは難しいかも知れません。ここでは、「肉体の波動を高めればそのまま霊体になることができる」つまり仏教の最高の悟りの境地といわれる「即身成仏」や、イエスが死後甦ったといわれる「アセンション(昇天)」ということが、ヒマラヤの聖者にもできたということだけ記憶に留めてください。


    ー これから終末を迎えるなかで、いわゆる「光の子」が高位次元の存在による手助けによって、天変地異や核戦争にもびくともしない状態になれるのは、私はこの「肉体の霊化現象」が起こるからだと思っています。そのことを、日月神示は「神憑かる」と述べているのでしょう。また、「野火より脱出」を読めば、一人の人が波動を高めれば、まわりの人を引率できることがわかります。       (なわ・ふみひと)

  • 肉体の自由自在なる出現・消滅


    出発の時、わたしたちを送り出す挨拶の中で、エミール師はこう言われた。


    皆さんはこれからジャストとネプロウの二人を帯同して調査旅行に出かけるわけですが、約90マイル先の次のおもだった宿泊地まで、多分5日ほどはかかるでしょう。わたしは暫くここに踏み留まることにします。90マイルの道のりを行くのに、わたしにはそれ程の時間はかからぬからです。そして皆さんの目的地で、到着をお待ちすることにしましょう。


    そこで、わたしからお願いしたいことは、誰か一人、隊員の方にここに残って貰って、これからの出来事をよく観察して証明する役を引き受けていただきたいことです。そうすればお互いに時間の節約にもなるし、ここに残って貰う方も、これから10日頃までには調査隊に加われるはずです。わたしたちとしては、その方によく見ていただき、見たことをよく報告してくださるようにお願いするだけです。


    こうしてわたしたちは、世話役のジャストとネプロウを伴って出発した。 (中略)


    5日目の4時頃、わたしたちは予定の村に到着した。ここでエミール師が、約束したようにわたしたちを出迎えるはずである。読者にわたしたちの驚きが想像できるであろうか。わたしたちは間違いもなく、唯一本しかない道を、途中で交代して日に夜をついで急行する飛脚は別として、この国では一番速い交通機関でやってきた。ところが、年齢も相当いっているはずの、またどう考えても90マイルの道のりをわたしたち以上の短い時日では来られないはずの人が、チャンと先着しているではないか。
    皆その訳を知ろうとして、いっせいに質問を浴びせかけたのも無理からぬことである。以下は師の話である。


    あなた方がお発ちになる時、ここで皆さんをお迎えしましょうと言いましたね。その通りにわたしは今、ここにいるわけです。人間は本来実相においては無限であり、時間・空間・制約を知らぬものです。ひとたび人間がその実相を知れば、90マイルの道のりを行くのに5日もトボトボと歩かなければならないということはないのです。実相においては、どんな距離も一瞬にして到達できるものです。距離の長さなんか問題ではありません。


    わたしはホンの一瞬前には、あなた方が5日前に出発した村にいました。皆さんがご覧になった肉体はまだそこで休息しています。あの村に残っている皆さんの同僚は、4時数分前までは、わたしが「もう今頃は着いているはずだから、出迎えの挨拶に行きましょう」と言ったことを証言するでしょう。


    このことは、ただ、わたしたちがどんな約束の場所、どんな定められた時刻にでも、肉体を残したままであなた方に挨拶に来られることを、お目にかけるためにしたのです。皆さんにお供してきたあの二人にも、同じことがやればやれたのです。


      そういうわけで、わたしたちが皆さんと根源を同じにするただの普通の人間でしかないこと、また神秘めかしいことは何もなく、父なる神、全能にして偉大なる一者が、すべての人間に与えたもうた力を、ただ皆さんよりも多く発現させただけであることが、一層よくお分かりになったでしょう。


    わたしの肉体は今晩まではあそこに置きますが、その後でこちらに引き寄せます。それで皆さんの同僚の方もこちらに向けて出発し、いずれそのうちに到着することになるでしょう。(中略)。


    その晩、一同が集まっていると、突然ドアも開けずにエミール師がわたしたちのまん中に現れて、こう言うのである。
    皆さんのいわゆる魔法のように、わたしがこの部屋に現れ出たのを、皆さんは今、目撃しました。(中略)
    わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に置き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質量が存在する『普遍なるもの』の中にいったん奉還したのです。


    それからわたしの神我(実相)、すなわちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとその波動が下がり、ついにこの部屋のここで具体化し、再現して皆さんにも見えるようになる、というわけです。


    一体、この過程のどこに神秘があるのでしょうか。神の「愛(め)ぐし子」を通じて父なる神がわたしたちに与えたもうた力、別言すれば、法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、人類全体ではないでしょうか。では、どこに神秘がありましょうか。どこにもないのです。
  • 無限供給、その実例と原理

旅行から帰ってみると、村にはたくさんの見馴れない人たちがいた。近在から集まった人々である。(中略)


さて月曜日の早朝、わたしたちは威勢よく300人の人々と一緒に勢揃いした。実はこれだけの群衆の大部分が病身で、病気癒しに来ているのである。金曜日までは万事うまく行ったが、日曜日になって今までに体験したことのない物凄い雷雨がやってきた。それからというもの三日三晩、土砂降り続きであった。(中略)


いよいよ食糧が切れるのではないかと、皆心の中では心配していた。中にはそれを口に出して言う者もいた。全体の世話をやいておられるエミール師がやってきて、こう言われた。


心配せんでもよろしい。神は大小の如何を問わず、その被造物一切の世話を見たもうものです。わたしどもは神の被造物ではありませんか。ホラ、ここに5、6粒の麦粒、麦の種子があります。これを植えることにしましょう。これは麦が欲しいと宣言したことになるわけです。


そうすると、わたしは心の中で麦という穀物を形づくったことになる(つまり、現象化するには、まず心の中で描くという)。法則を成就したことになる。従ってそのうちに麦が生え出てくるでしょう。
しかし大自然は成長も展開も遅いものです。その大自然が麦を生やさせる長い根気の要る過程を待つ必要があるでしょうか。もしそうなら、麦を手に入れるのに辛い思いをして長い間待たなければなりますまい。しかし、なぜ、父なる神がわたしどもに与えて下さったもっと高度の、もっと完全な法則を使わないのでしょうか。


ただそのために必要なのは、心を静め麦を心の中で観ずること、言い換えればその理想的状況を描くことです。そうすると、きちんと手入れされて使用するばかりになっている麦が手に入るのです。もし本物かどうか疑わしいのなら、それを集め、粉にひいてパンにしてみるとよい。


するとわたしたちの目の前に麦が生え出て、見る見るうちに伸び、チャンと手入れされた状態になったので、それを集めてひき、後でパンにしたものである。


エミール師は尚も語りつづける。


皆さんは、今、これを目前に見て信じた。今度は一層完全な法則を適用して、一層完全なものすなわち皆さんのちょうど望んでいるもの、つまりパンを出そうではありませんか。この完全な法則を利用して、わたしが自分のまさしく必要とするもの、即ちパンを出し得ることがお分かりになろう。


わたしたちが、まるで棒でも呑んだように茫然と立ち尽くしているうちに、大きなパンが1個、彼の手の中に現れたではないか。しかも、それが次々と現れて、テーブルの上にエミール師自身が手で合計40個並べるまで尽きないのである。(中略)
一同がそのパンを食べてみたところ、確かに美味しいと声に出すほどであった。


エミール師は更に続けて語る。


イエスがガリレアで、フィリップに「どこでパンを買おうか」とお尋ねになったのは、実はフィリップを試すためでした。というのは、イエスご自身は心の中では群衆に給食のパンを買う必要もなければ、その頃あった材料市場で材料を整える必要もないことは、十分にご存じだったからです。イエスは今や、聖霊によってパンが発酵され増やされる力を、弟子たちに証明する機会が到来したことをお知りになったのです。(中略)


それからイエスはパンを割き、弟子たちを通して飢える人々に配って腹を満たしてあげ、しかもなお籠の2杯分だけ余ったのです。イエスはご自身や他の人たちの必要を満たすのに、人の余りものに頼ることは決してなされなかった。われわれに必要なものは一切の供給の源泉である普遍的原質の中にすでにあり、われわれはただそれを創り出すか、引き出しさえすればよいと教えられました。(中略)


これは催眠術ではない。現に皆さんの中で催眠術にかかっていると思っている者は一人もいないはずです。ここで特に断っておきたいことは、催眠術は一つしかないことです。それは、人間には神の完全なるみ業を自らなして自分の欲する事物を創造することはできないと信じ込む自己催眠だけである、ということです。(中略)


イエスは、「あなた方もわたしのする業をするであろう。これよりもなお大きな業をするであろう」と言われたではありませんか。人間が神の子として、実相において神と同じく完全に、かつ調和のうちに創造し得るものであることを示すことが、イエスの地上における本当の使命ではなかったでしょうか。(中略)


さて、ここで百尺竿頭一歩を進めましょう。今、わたしが受け取って手に持っていたこのパンがちょうど火で燃えつきるようになくなりました。一体どうした訳でしょうか。それは、わたしの思いを現象化してくれた完全法則を誤用したため、つまり正しく使わず、正しい目的に使わないために、せっかく現象化したものを消尽してしまったのです。それが音楽や数学、その他のいわゆる自然法則の場合と同様に、厳正なる完全法則であります。もしわたしがこのような完全法則を誤用し続けていくなら、それはわたしが創造したものだけでなく、ついには創り手のわたしまで消してしまったでしょう。


それではパンは本当になくなったのでしょうか。なるほど、一応パンの形は変わりました。パンの代わりに僅かなホコリないし灰が残っているだけだから。しかし、実は本来の普遍的質料に還元されたのではないでしょうか。それは今、未発の形の中に潜在して、後日の再発現を待っているのではないでしょうか。燃焼、朽廃、その他種々の過程を経てわたしたちの視界から消えていく有形物は、皆そうしたものではないでしょうか。それらはすべて出発点の普遍原質(すなわち神)に返るのではないでしょうか。これが「天より降りたるものは天に昇らざるべからず」ということの意味ではないでしょうか。

  • 宇宙力使用の原理


    その村に着いた日は大雨で、皆肌までズブ濡れになってしまった。それでも大変居心地のよい或る家に案内された。そこには調度が気持ちよく整えられた大きな一室があり、そこをわたしたちの居間兼食堂として使ってもよいことになった。それにこの部屋は大変温かくもあって、何となく心もはずむので、一体どこから熱がくるのだろうという仲間の一人の独りごとに、一同もあたりを見回したが、暖かいほとぼりのあることにはすぐ気づいても、ストーブ一つ、これという熱源一つ見出せなかった。

不思議なことだとは思ったが、別に詮索もしなかった。というのは、もう驚くことには慣れっこになっていたし、いずれ後で分かることだと確信していたからである。


わたしたちが食卓に座ったかと思うと、エミール師と4名の男が入ってきた。一体どこから入ってきたのかさっぱりわからなかった。5名が5名とも部屋の片方の端に、しかも出入り口のない方に同時に出現したのである。物音ひとつ立てず、誇り顔もせず、いきなりそこに現れて、静かにテーブルに歩み寄って来、エミール師が同行の4人を紹介した。

それがすむと、まるで自分の家のように座って、くつろぐのであった。フッと気がつくと、テーブルの上にいつの間にか、見るからに美味しそうな食べ物が並んでいる。しかし、肉は一片もない。この人々は、肉や自我意識のある動物は一切食べないのである。
食事がすんで、わたしたちがテーブルを囲んだまま座っていると、仲間の一人が、この部屋が暖房されているカラクリを尋ねた。


皆さんの感じているこの部屋の温かさは、或る力から来るもので、この力にわたしたちは誰でも接触してそれを使用できるのです。しかも、この力はどんな機械よりも強力です。人間はこれに接触して、光、熱、その他すべての機械の原動力としてこれを使用できるので、わたしたちはそれを宇宙力と呼んでいます。あなた方でしたらきっと永久運動と名づけるでしょう。わたしたちはまた、それを普遍力、あるいは神力と呼んでおります。父なる神がすべての神の子らに役立てるために供されたものです。


それはいかなる機械装置でも動かし、「燃料の消尽」ということなど全く知らずに運転し、しかも、なお光と熱とを供給します。その上、金もかからず、従って値段もなく、至るところに普く存在し、いかなる人でもそれに触れ、それを利用することができるのです。


誰かが食べ物でも調理できるかと聞くと、これまでにパンその他の食料が普遍原質の中より忽然と出てきたように、食べ物でもチャンと料理されて出てくる、先ほどわたしたちの食べたものがそうだった、という答えであった。


その後でエミール師は、わたしたちを師の一行と一緒に約2百マイル先の師の家に招待してくれた。そこで師の母堂にも会えようというのである。


わたしの母は肉体を完成し、その肉体をまといながら進歩しつづけて、ついに最高の教えを受けることのできた人です。そのため母はいつも不可視の世界に住んでいますが、最高のものを受けたいと願っているところから好んでそうしているのです。最高の教えを受けているために、それだけ多くわたしたちを援助することができます。手っ取り早くいえば、母は今では、皆さんのいわゆる天国、つまりイエスのおられる所にいます。この天界は時には第七天ともいわれます。

そういっても、みなさんには神秘の神秘としか響かないでしょう。しかし敢えて申しあげると、この天界について神秘などというものはありません。天界といってもそれは意識中の或る場であって、すべての神秘が啓示されるところです。このような意識の状態に達した人々は俗人からは見えない処におりますが、現界に戻って感応力のある人と話したり教えたりすることができます。
 
その人たちは何かの乗り物にでも乗ってくるのではなく、自分自身の体のままでやって来られます。それは、そういう方々は体を完成しているので、どこへでも欲する所へ肉体のままで行くことができるからです。別に生まれ変わらなくても、この世に帰って来れます。

普通の人はいったん死の関門を過ぎてから再び肉体を持ってこの地上に戻ってくるには、生まれ変わって来なければなりません。わたしたちのこの肉体は一個の完全なる霊体として与えられたものであって、わたしたちはそういう目で肉体を見て、よく保持しなければなりません。肉体を去って霊としてやってきた人たちも、今ではもう一度肉体の形をとって生き、肉体を完全にしなければならないと悟っています。

  • 野火より脱出


    当日は朝の10時に稲妻を伴うひどい嵐がやってきた。大雨になるかと思ったが、結局降らずにすんでくれた。今度通ってきた土地には鬱蒼と茂った森林が多く、地表は厚い乾いた草でビッシリとおおわれている。この辺の土地は他とは違って、雨のない土地柄のようである、と思っているところへ、5、6カ所の草に突然落雷し、火が燃えうつり、アッと思う間もあらばこそ、わたしたちはいつの間にか火事に取り巻かれてしまった。数分もすると、もう火は猛り狂い、急行列車の速さで三方から私たちに迫ってきた。

その上、ごうごうたる火炎が下にこもり、わたしたちは全くうろたえ、恐怖のとりことなってしまった。エミール師とジャストはと見ると、冷静に落ち着き払っているので、わたしたちもようやくいくらか安心した。


のがれる道は二つある。一つは次のクリーク(小川)に行き着くこと。そこには水が流れ注いでいる。約5マイル先の渓谷に着けば、火が燃え果てるまで安全でいられる。もう一つは、もしあなた方がわたしたちを最後まで信頼できるなら、わたしたちと一緒にこの火を切り抜けることです。


この言葉でたちまち恐怖は消え去った。この二人はどんな緊急な事態においても常に誠実な伴侶であったからである。わたしはいわば完全に彼らの保護に、自分自身を全託して二人の間に進み出た。こうして3人が先頭に立って一緒にどんどん先へ進んで行った。どうやらその方向が一番火の盛んに燃えているところらしかった。

しかし見よ、わたしたちの前に一大アーチウェイが開かれたかのごとく、わたしたちは煙や熱や足下に散らばる燃え殻に煩わされることなく、火中を真っ直ぐに進んで行った。火災区域は少なくとも6マイルはあったが、まるで燃えさかる火などないかのごとくに平然と歩いて突破し、一条の小川を越えて、ようやくこの平原の火から抜け出たのである。

この火焔の中を通り抜けながら、エミール師はわたしにこう語った


神のより高き法則が真に必要となった時、低い次元の法則で置き換え得ることが、どんなにたやすいことであるか、これでお分かりになったでしょう。わたしたちは今、肉体のヴァイブレーションを火事のヴァイブレーションよりも高めているのです。従って、火事もわたしたちを害することはできません。もし俗眼でわたしたちを見たとしても、わたしたちが消え失せたとしか見えないでしょう。


しかし実際にはわたしたち自身はいつもと少しも変わっていないのです。わたしたちを見失ったのは肉体の五感だけであって、もし肉体人間が今のわたしたちを見れば、きっとわたしたちが昇天でもしたと思い込むに違いない。事実その通り昇天したのであって、肉体の五官では接触を断たれてしまう意識層に上がったのです。しかし、これはわたしどもだけにしかできないというのではなく、皆にできることです。


わたしたちは父なる神がわたしたちに使わせるために与えたもうた或る法則を使っているのです。この法則を使って自分の肉体をいかなる空間にでも持っていくことができる。これがわたしたちの現れたり消えたりする、皆さんの言葉でいえば、空間を滅尽する際に使う法則です。困難に遭っても自分の意識をそれ以上に上げて困難をただ超えるだけです。また、この方法で人間が肉体意識で自分自身に課した一切の制約を超越すること、即ちその上に昇ることができます。


わたしたちの足は歩くというよりは、あたかも地面から離れた上を行く感じであった。川を越えてようやく火事から抜け出た時、まず感じたことは、深い眠りと夢から目覚めた心地であった。これとともに、この体験の本当の意義に次第に目覚め、やがてその意義がわたしの意識に夜明けのように明け始めていった。


(以上抜粋終了) 
なわ・ふみひと氏に労作に感動しました。小生の勝手な抜粋に付き感謝
致します。



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